県庁所在地の秘境駅、「浅岸駅」「大志田駅」その末路/JR山田線

幼少の時、叔母の友人が浅岸に住んでいるから、山田線で浅岸駅まで乗って行こうと話していました。この話は、特に理由なく実行される事には至らなかったのですが、当時の私や叔母が、浅岸地区に浅岸駅があるものと考えていたのは間違いでした。実際には、浅岸地区は、どちらかというと山岸駅が最寄でした。それどこか浅岸駅の住所は盛岡市新庄字中津川と、まったく浅岸地区と被っていません。一方、大志田駅は住所に浅岸が含まれ、浅岸地区に含まれます。(これもうわっかんねぇなぁ)(浅岸駅と浅岸地区は住所的に被っていない。浅岸も地区としては、恐ろしく広いのですが・・)

浅岸駅と大志田駅の廃止が発表されたのは、2015年12月11日でした。その年の8月には既に、盛岡市へ廃止の検討が伝えられていました。

廃止が発表された翌日、浅岸駅に行きました。階段の前に張り紙が・・廃止のお知らせでしょうか?

どうやら大志田駅と浅岸駅は、冬季間のみ全列車が通過してしまうようです。つまり、廃止が発表された12月11日時点で、既に止まる列車がなく。11月30日が事実上の最終日だったようです。廃止発表より前に、営業を終えてしまうという事になっていました。ちなみに、私たちは、廃止発表後翌日に訪れました。

ホームには熊がでるとの張り紙が・・・廃止発表翌日時点では、廃止のお知らせ等の張り紙はなされていませんでした。

下りの始発が・・17時台とは・・・上りも午前中は早朝の始発のみ・・列車を利用しての日帰りはできないことはないですが、現実的ではありませんね。17時の列車で行って僅かに滞在して帰ってこれそうですが・・・

宮古方面を眺める・・この時、前日の事故により山田線全線で運休しており列車は走っていませんでした。冬目前で、どこか寂し気な雰囲気です。

ホームは雪にうっすらと覆われていました。

臨時列車もくぞう駅舎号で訪れた際の浅岸駅です。ホームは木造で、木自体も古そうです。

これぞ秘境駅といった感じでしょうか

もくぞう駅舎号で訪れた際は、普段ではありえないほど多くの人で賑わいました。

浅岸駅付近には、少し大きな建物がありました。現在は廃校となっている旧盛岡市立中津川小学校、現在は中津川地区振興センターとされていますが・・その中津川地区自体、2世帯ほどの集落と言われており、こちらで管理、活用されているのか、詳しい事はわかりません。2020年現在、中津川地区が今どうなってしまったのか、私は存じ上げていません。

浅岸駅を後に、106号へ向かいます。途中、遠くに綺麗な岩手山が見えました。山を越えたさらに先に、雪化粧した綺麗な岩手山が突き出てました。そして、私たちは、事故現場を訪れました。

浅岸駅、大志田駅の廃止が正式に発表された2015年12月11日に、山田線の松草 - 平津戸間に土砂が流入。そこへ上り列車が突入、脱線する事故が発生しました。乗客22名と乗務員2名のうち、乗客1名が重傷、乗客14名及び運転士が軽傷という大変な事故が起こりました。

この事故の影響で、山田線は上米内ー川内間で、2017年11月5日までの約2年間、長期間の不通を余儀なくされました。大志田駅と浅岸駅は、正式な廃止日の2016年3月26日を、通過する列車に見送られる事もなく廃止されてしまう事になりました。

事故の翌日ともあって、報道陣の姿もありました。

宮古駅につくと、事故のお知らせと、106急行への振替輸送の案内がありました。

大志田駅は、浅岸駅の盛岡寄りの隣駅です。浅岸駅よりも本数が少なく、浅岸駅と同時に廃止となりました。浅岸駅も大志田駅かつては、スイッチバック駅でしたが、大志田駅はその遺構を線形などに強く残していました。

下り1本、上り2本という驚異的な少なさ・・

ホームは、舗装と点字ブロックが施工され、浅岸駅よりも近代的になっています。本数は大志田駅の方が少ないのですが・・・

駅ノートも設置されていました。全国各地から、駅を訪問された方がいらしたようです。

三陸鉄道直通の臨時快速列車から通過時に撮影したものです。

曲がりくねった先に、大志田駅のホームが見えてきました。

やはり、大部分が舗装されて、浅岸駅よりも近代的な作りです。

分岐先で、作業する人々がいます。この分岐した側線の先は、スイッチバック時代は、駅舎とホームが存在していました。現在は、保線用の詰め所がのこり、このように保線作業の拠点になっていました。駅が廃止され撤去された後も、保線関連の設備は残されています。

大志田駅を過ぎると、上り坂になります。かつての蒸気機関車の時代は、急勾配途中で発進する事ができないため、一端平坦な場所に、駅舎やホームを設置し、その平坦なホームに列車を停車させ、さらに後退させて、傾斜のつけた加速線に入ります。そこから、稼いだ位置エネルギーを利用して勾配を登り切ろうという算段で設計されました。

現在では加速線の路盤などは、右の茂みに隠れわからなくなりました。駅の位置も、1982年にかつての本線上盛岡寄りに移されました。スイッチバック時代の駅舎とホームは撤去され、停車線部分は、保線用の側線に流用され現在に至ります。

上り勾配である事がわかります。

もくぞう駅舎号のようなイベント列車でない限り、余裕をもって訪問する事は難しかったです。

多くの人は、車や自転車、バイクなどで訪問する事が主でした。

秘境駅としてマニアを集めたこの二駅が来るべき日を迎えてから、4年の月日が経ちました。

これら駅の事を、いまどれくらい人が覚えているのでしょうか。

Travel notes

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